昭和50年頃の福島県郡山市は、実に活力に満ちた街であった。
東北新幹線の橋脚工事は、急ピッチで進んでおり
小生たち大学生もアルバイトで、土木工事現場でよく働いていた。
平日はクラブ活動があるので出来ないが
日曜日のクラブ活動のない日に限り、働いていた。
当時の日給は2,800円であった。
進級する連れ、下宿やクラブの後輩が増え
当然おごる機会が一気に増えて来たのだ。
大変な財政ピンチであった。
一年生の頃、先輩のいる店をわざわざ捜して
「ごっつあんです。」
の一言で、おごってもらっていた立場が逆転したのだ。
後輩も的を得たもので、小生たちのいる店を嗅ぎつけ、やって来るのである。
普段、厳しい練習と教育しているだけに、素顔の後輩の顔を見ると
嬉しさの余り、ごちそうしてあげていた。
体育会、また下宿、サークルの組織、全てがそんな雰囲気であった。
日大とは、そういう土壌で成り立っていた。
結局のところは、アルバイトのお金だけでは何ともならず
母親に進級する度に、SOSを発信していた。
1年の頃、35,000円の仕送りが
4年になると、50,000円にアップしていたのである。
郡山市の繁華街は、主に2地区に分かれており
駅前アーケイドを中心としたエリアと
暴力団がよく出入りしている堂前地区に分かれていた。
当然、自然と住み分けは出来ており
学生は駅前アーケイド、ヤクザは堂前と決まっていたが
日大生は特に体育会の学生は、どこへでも出没するので
イザコザは日常の出来事であった。
当時は 「嗚呼!花の応援団」
主人公の青田赤道の全盛期であった。
小生たち体育会の学生も学ランをまとい、夜の街をさわたれ歩いていた。
世間的には小生たち学生も
青田赤道と同じレベルに見ていたのかもしれないが
実際は全く異質なものであった。
何が?
それは、日大工学部体育会の学生は、実に硬派としてならしていた。
小生も、宮本ひろ志の硬派銀次郎版を地で行っていた程であった。
「硬派銀次郎とは、オレのことたい!」
なんていう会話は、あちらこちらから聞こえてきた。
軟派派の学生は、体育会系の学生に街で出会うと
睨まれ、詰め寄られるため
デートも出来ず、おどおどした生活を送っていた。
決してもてないから硬派を演じているのではなく
当時の小生たち体育会の学生には、彼女は必要なかったのである。
武道を通じて心身を鍛えることに専念しているため
そんな心の余裕はなかったのだ。
何年もその街で暮らせば、浮いた話の1つや2つは有るのだが
一切を遮断し、いずれ好きな人が出来た時、この手守ってあげようとだけ思っていたのである。
学ランをまとい、頭はスポーツ刈り、タバコは吸わず、大酒をくらい
女性には指一本触れず、困った人がいれば何をおいても助けてあげる
バリバリの硬派を演じていたのである。
2年も終わり、準幹部となった頃は、夜の街を歩いていても
全く恐いものが無く、唯一あるとすれば呑み屋で後輩に出会った時の
「押忍! ごっつあんです。」
の一言であった。
ある夜、一人、スナックでママと話していた。
ママが言う。
「最近、ヤクザの連中がよく来るようになったの。」
実に困った雰囲気が伝わって来た。
そこで小生が言う。
「用心棒にオレをやとってくんない!
酒を呑ませてくれたら、金いらないから。」
言ってしまった。
続く...





